加子母の歴史、旧跡

■「加子母」の名前の由来
村在住のお友達にお聞きしたところ、「昔は小郷村と河下村(かわしもむら)と2つに分かれていたのを一つにした際に当て字でつけたのが有力」とのことでした。
 「かしも」という名前、なんだかやさしくて親しみやすくてとってもいい名前だと思いませんか?


■明治座
 芝居見物が盛んだった明治27年に村の有志によって立てられたのが明治座です。本格的な回り舞台にセリ、両花道や2階席まであるめずらしい劇場形式の豪華な農村舞台とか。実は加子母の歌舞伎は非常に有名なのですよ。現在でも時芝居以外でも映画やクラッシックなどのイベントにも使われているそうです。
でもやっぱり一度加子母の歌舞伎をちゃんと見てみたいです。写真左は上演されるとき。写真右は静かな朝の明治座です。
■加子母に伝わる「獅子舞」
  ネット上で加子母に伝わる獅子舞の記事が広報いぬやまに出ていました。以下紹介します。
 「加子母獅子の特色は、他の獅子舞のように曲取りには重きを置かず、古風を尊び、素朴なところです。しかも優雅のうちに、獅子そのものの特徴を発揮する事で、山や田の仕事に節くれだった村人の手で操る自然の妙は、神前に奉納するにふさわしい巧まぬ美しさを持ち続けています。昔はこの獅子頭は手製の木彫りでしたが、現在は張り子の紙製を使っています。」
 一度見てみたいです。新興都市である私の街にはないものです。こうした伝統を大切にして代々伝えているのだなぁと思いました。

■文覚上人の墓
 文覚上人は真言宗の高僧であり、時の権力者後白河法王によって伊豆に流されたときに同じく流人となっていた源頼朝と親交をもち、以後、鎌倉幕府の創建に尽力した人物である。その文覚上人が旅の途中で病で倒れこの地で葬られたとされている。加子母には文覚上人が源頼朝の協力を得て創建した大威徳寺が建てられた地(戦国時代に消失。大規模な寺院だったようだ。)でもあり、いわば文覚上人ゆかりの地の一つでもある。
 文覚上人は元は遠藤盛遠と名乗る北面の武士。18歳の時に友人の妻である袈裟御前に横恋慕し、友人を殺して袈裟を妻としようとするが誤って袈裟を殺害。罪を償う為に出家して苦行し、高僧になったという言い伝えがある。
 旧暦の7月9日には墓石になめくじが数多くはい上がるなめくじまつりが行われます。なめくじは文覚上人の罪を許して慕い寄る、袈裟御前の化身だと言われている。